堅苦しいタイトルですが卑近なお話で恐縮です。
過去記事「定年の楽しみ方」で合唱について書きましたが、この週末、合唱コンサートの本番に参加してきました。
今回のコンサートは単なる歌ではなく、オペラ・アリア。オペラ歌曲の中でもメインとなる名曲を歌うコンサートだったので、私達合唱団と雖も舞台上では演技をしなければなりません。
演技しつつの合唱は初めてでしたが、これがなかなか難しく、歌以外にも立ち位置や振り付け、ソリストや他の合唱の皆さんの動きも頭に入れておかねばならず、且つ本番と同じ舞台で稽古できるのは本番当日のゲネプロだけ、と中々の難関でした。
矢張り素人合唱団では難易度が高かったようで、本番は練習やゲネプロ通りには行かず、伴奏・ソリスト・合唱が相互に合わず何度も崩壊しかける結果となってしまいました。
昨晩はその反省会。
然し、参加者夫々で感じ方が全く違っていたということに驚きを覚えました。
私と同様に「今回の本番は崩壊したので次の本番までに立て直さなければ」と強い危機感を持った人も少なからずおられた一方、「何が不味かったのか?」という反応の人もチラホラ見られました。
また、問題があったことは判っていても「問題だ」と声を上げることに不快感を示されているような方もおられました。
たかだか、と言っては申し訳ありませんが、数十名の参加で、つい数日前に全員が同じ体験をした筈の合唱ですらこんなに意見が違い、合意形成出来ないのですから、そりゃ日韓だの米中だので合意するなんて簡単じゃないわなぁ、と妙なところで実感してしまいました。
丁度日経新聞の「春秋」が、小手鞠るいさんの小説『ある晴れた夏の朝』を取り上げていました。
広島原爆を巡って肯定派と否定派に分かれて議論をしたところ、当初は厳しい応酬でしたが回を重ねるうちに戦争の愚かさや敵をも愛する人間の崇高さに目覚めていく、というストーリーだそうで(残念乍ら私はまだ読んだことがありません)、根深い対立でも議論を尽くせば一致点に辿り着けることを示唆してくれているとのことでした。
然しその「議論を尽くす」ということが現実社会では難しいのではないでしょうか。
合唱本番の出来についてすら、議論することすら不快な方や、議論の冒頭で意見が相違したらそれ以上は議論したくない、という方もおられたように、国と国とでも、そもそも議論などしたくない人や意見が対立したらそれ以上議論を深めたくない人、もいます。
そういう人がいることを前提に解決策を模索しないと、「対立する前に議論を」という考え方は空疎だと感じています。