東京パラリンピックまであと1年、然し肝心の障害者から、パラリンピックは障碍者の地位向上には役立っていない、との声が上がっています。
何故障碍者がそのように感じられているのか、考えてみました。
十数年の海外暮らしから日本に戻って感じた違和感の一つが「バリアフリーではない日本」です。街中の随所には微妙な段差があり、点字ブロックも途中で途切れたり物が置かれたり、駅でもエスカレーターやエレベーターが無い、あっても非常に使い勝手の悪い出入口にしかない、等、「バリアフリーではない日本」の事例は数え上げればきりがありません。
私は折角に東京でパラリンピックが開催されるのですから、そうしたバリアフリー対策も確り行われるものと思っていましたが、残念乍らオリンピック・パラリンピックの関係者にとっては、障碍者の生活向上ではなく、自分たちの競技団体のメリット、建設利権、便乗対応、にしか興味が無かったようです。
これでは障碍者ではなくとも、パラリンピックを東京で開催する意味は何だろう、と疑問を覚えてしまいます。
そしてもう一つがパラリンピックそれ自体の罪です。
パラリンピックは障碍を持った方でもこんなに輝けるんですよ、という意味では良い場所なのでしょう。
然しそれは、失礼を承知で敢えて言えば「恵まれた障碍者」にとって、です。
現実問題として、障碍を持つ方が障碍者競技に注力するには、周囲のサポートと莫大なお金が要ります。もちろん、それを得られる努力を皆さんされているのですが、然しどんなに頑張ってもそういった支援を得られず、そもそも障碍者競技を始めることすら出来ない人、始められて才能はあってもそれを強化出来ない人、が大半であって、普通の障碍者からすれば、パラリンピックに出られる人は「初めから恵まれた障碍者」に見えてしまっている場合があります。
更に言えば、「頑張った」障碍者が偉い訳では当然ですがありません。
頑張らない、ごく普通、に障碍者が生きていけることこそ、理想の社会ですが、一連のパラリンピック関連の報道を見ると、頑張った障碍者は偉い、ひっくり返えせば頑張れていない障碍者がダメ、としか受け取れない内容のものもあります。
パラリンピックを単なる「商売の道具」ではなく、真に普通の障碍者にとってメリットのあるイベントにすべきではないでしょうか。