仕事で日本語・北京語・英語の翻訳をすることが少なからずあるのですが、両言語対比日本語の明らかな特徴が幾つかあります。
一番困るのが「主語」です。
英語や北京語では基本的に主語は必須ですが、日本語ではしばしば主語が省略されます。
例えば日本語だと「学校に行きます。」という文章で何の違和感もありませんが、英語の「I go to school.」、北京語の「我去学校。」から主語を取ったら(通じなくは無いですが)違和感があります(英語は命令文になっちゃいますし)。
こうした日本語の「主語省略」は、日本人のメンタリティに関連しているように思います。敢えて「誰が」を言わないことで、主体を曖昧にして、責任の所在を判らなくする、というのはとても日本人的でしょう。
日本語では、省略した言葉が固定化しているものも少なくありません。
先日、NHKの某有名番組にて「さようなら」の語源について取り上げていました。
元々は、
「〇〇である。左様ならば、××である。」
という接続詞だったのが、
「左様ならば(それでは)、また明日」
「左様ならば(それでは)、お気をつけて」
という風に使っているうちに、接続詞だけが残って別れの言葉になったそうです。
この文章で肝心なのは後半なのに、その後半を削って前半の「左様ならば」だけで後半の意味を暗に表すとは、曖昧な日本人メンタリティの典型ではないでしょうか。
また、意味が非常に曖昧であるが故に幅広く使われる言葉もあります。
代表格は「すみません」。
この単語は、謝る、お礼を言う、ちょっと何かを頼む(例えば道を譲ってもらう)、といったシーンの何れでも使えますが、英語や北京語では全て違う表現になります(広東語の唔該(ンゴイ)は日本語のすみませんに近い使い方が出来ますが)。
よく、外国人にとって日本語は難しいと思っている方もおられますが、確かに尊敬語や謙譲語まできっちり操るのではなく、通じるレベル迄ならば、寧ろ日本語はこの曖昧さのお陰で簡単な方の部類でしょう。
他の言語によく見られる単数・複数や時制なども日本側は曖昧で、然しそれで十分に通じます。
日本人は良くも悪くもこの日本語の曖昧さに象徴される、曖昧な国民性です。
然しこれだけ色々な国の人が日本を訪れたり住んだりするようになると、この曖昧さがトラブルの一因になりかません。
何れ、日本人も今少しこの曖昧さから脱却しなければならない時代が来るものと思います。