未だに収束を見ない「桜を見る会」問題ですが、個人的には野党の攻め口は下手だと感じています。
資料請求と前後して資料をシュレッダーしてしまった問題の攻め所は、請求があったから証拠隠滅でシュレッダーしたのかどうか、ではありません。
そこを攻めても、偶然だと言い逃れされてしまえは、それ以上の追求は不可能です。
寧ろ、毎年開催する総理主催の会の招待者は、前年以前のデータを参考にリストアップする筈なので、本当に資料を破棄したならば、仮に総理や官邸から「昨年、○○さんは呼んだっけ?」と問われても「資料がないので分かりません」と答える運営をしていたのか、という点を突くべきです。
この攻め方ならば、どう抗弁したところで「一般常識」との乖離に多くの国民は違和感を持ち続けるものと思います。
オーナー商法の社長が総理枠で招待され、同社がそれを使って商売を拡大させていたとされる件も、招待した時点では反社では無かった、と言われてしまえばそれ以上の議論になりません。
この件も、招待者が反社かどうかではなく、「桜を見る会」の招待客が、それを顧客の信用度アップに悪用していたことに対する総理の道義的責任を問うべきです。
昨今の官邸は「法に反していない」「ルールに則っている」という物言いが散見されますが、一国を率いるトップには、法やルールを越えた高い倫理観や道徳観が求められる、「桜を見る会」も、更にはモリカケ問題も、その観点から総理と官邸に、国のトップたる資質があるのか、を問うべきだと私は思います。
以前にも書きましたが、モリカケ問題について総理が直接お友達優遇を指示していたとは私も思いません。
然し、総理のお友達を、官僚が忖度して優遇するかもしれない点は総理や官邸が能動的にチェックすべきだし、寧ろ官僚には「私の友人だからと手心を加えたりしたら絶対に許さん」というメッセージを発するところまでやっていなければ、不作為の罪が総理・官邸にはあるものと思っています。
中国に「李下に冠を正さず」という諺があります。
この諺は、李(すもも)の下で冠を正す為に手を上げると、李を盗むかの誤解を与えかねない、即ち、疑わしいまねをするものではない、という意味です。
出典:『古楽府・君子行』、原文:瓜田不納履、李下不正冠
国のトップにある者、代表たる者、には、この精神が求められると私は思います。
【過去関連記事】