グレタさんの訴えを考える

一躍時の人となったスウェーデン人環境保護活動家グレタ・トゥーンベリさんの言動について、賛否両論が出ていますので、私なりに彼女の訴えについて考えてみたいと思います。

彼女への批判で代表的なものは環境保護の「訴え方」についてでしょう。

ヒステリックに泣き叫ぶ姿それ自体に嫌悪感を覚えている人は少なくないでしょうし、環境にダメージを与えるから飛行機に乗らないと言いつつ電車に乗っているのは如何なものか、食事風景を見るとプラスチック容器だらけじゃないか、等々、その言動には一貫性が感じられない点が少なからずあります。

彼女はその背後にいる活動家の大人の操り人形だろう、と言った指摘も出ています。

いずれの批判も、一定の理はあるという点は私も思います。

それでも私は、彼女のような人が今の世界には必要だと感じています。

私自身が環境対策に疑問を感じたのは遥か昔、「排出権取引/排出量取引」と言う概念を知った際です。

「排出権取引/排出量取引」とは、企業や国に認められている温室効果ガス排出量を超えてしまいそうな場合に、余っているところから排出量枠を購入すれば制限を守っていることになる、という制度です。

確かに地球全体で見れば排出量は変わらないのかもしれませんが、これでは単なる金持ち企業・国の優遇です。各国が削減目標を決めているのだからそれを清々と守るだけ、であるべきなのに、そんな当たり前のことをしないで小手先の調整を行い、ましてやそれを大手企業・金融機関が堂々とビジネスにしている、という現実に極めて強い違和感を覚えました。

飛行機についても、排出量もさることながら、そもそも石油資源は何れ枯渇することが確定しているのですから、次の世代のことを考えれば飛行機に代替する交通手段はそろそろ真剣に考えられるべきでしょう。

昨今では「持続可能な開発目目標(Sustainable Development Goals: SDGs)がやたらと叫ばれています。兎に角、SDGsとつけておけばオッケー、という風潮にも違和感があります。

化石燃料に依存する日本は国際的に非難されていますが、それに対しては若手ホープと言われていた小泉環境大臣も非常に歯切れが悪い。

結局、環境保護で経済が衰退するなんてあり得ない、という発想が先にありきなので、環境保護を口では唱えながらも全く真剣さが感じられない言動が政財界から相次ぐ理由なのでしょう。

私は環境問題には人々のマインドセットが必要なのだと思っています。

便利さの追求はもうそろそろ良いのでは?

次々に新商品を出して消費させるのではなく同じものを長く使うべきでは?

必要だからエネルギーを確保するのではなく、確保できたエネルギーの範囲で暮らしてからどうか?

兎に角、成長、発展こそが目標だ、という価値観を転換する時であり、その観点から言えば、グレタさんのような破壊力は人類に必要ではないか、と私は感じています。